
最近になってアイデンティティ(自己同一性)を揺るがす出来事があった。
そしてそれがこれまでの人生において作用して影響していたことを知った。
これまでは知らなかったし見えていなかった。
しかし、フィルターのように確かに自分自身を覆っていたものであった。
それは、これまでの人生において見えているようで見えていなかった。
ただ、近年において特に悩まされ苦しめられていた事柄であり探し求めていた確かな答えであった。
30歳前半になっても自分自身を知っているつもりであった。
気が付くのが遅すぎるのである。
これまでにも幾度かはヒントのようなものが垣間見えていたはずだったのに…
この答えにたどり着いたのでさえ周囲に誘導された気がする。
アイデンティティが変わることで自分のこれまでの認識も変わってしまった。
他者からの自分への認識や社会の在り方の違いをはっきりと意識出来るようになった。
これまで恐れおののいていた正体不明の得体の知れない恐怖を認識出来るようになった。
しかしながら、アイデンティティが変わることは自己認識が足元から崩れ落ちてゆくようであり自らの精神にも大きく影響を与えた。
アイデンティティが揺れたとき
真実には到達することは難しい
伝言ゲームをしたことはあるだろうか?
お題を言葉で伝える単純なものもあれば、イラストを描いて伝えるものもあるだろう。
最終回答者までに到達する間にお題が変化していく過程を楽しみ、その解答の正否を楽しむものである。
ゲームの難易度は参加者の数が増えれば増える程に増していく。
お題の正しい回答という真実を知っているのはお題を出した者と一人目の回答者である。
それ以降の回答者の答えは全て自らの中で落とし込み納得した回答という事実となるのである。
回答権が次の者に移るごとにそれぞれの事実が増えてゆきお題の回答とは遠のいてしまうかもしれない。
それは末端の回答者まで進んでゆくと場合によってはお題とはまったく違ったものとなる可能性もある。
それでも末端の回答者にとっては事実ではあるのだが真実とはほど遠いものとなってしまう。
ゲームであれば最後に答え合わせがある。現実で答え合わせはあるのだろうか?
これが現実の話しとなると真実に到達することは限りなく難しいことであると思う。
出来ることといえば調べて考えて推測して真実へと近い事実を思案して自らを納得させることではないのだろうか?
納得できる答えであれば末端の回答者のようなまったく真実とは違った答えにはならないのではないだろうか。
少なくとも真実に近しい事実へと到達することは出来ると思う。
対極的な考え方を持つこと
これまで私の精神を病ませていたものの理由はいくつかあった。
その中でも大きな割合を占めていたものは答えの出ることの無い思考だった。
自分だけでは真実に到達することはないのに過去のことを日々考えて色々な可能性を思案してしまう。
日常生活をしていても常に脳みその一部をそのことが占領していて考えたくなくてもふと常に考えてしまっている。
これは非常に厄介なことだ。
どうしてもそのことが頭から離れないので自己パフォーマンスが低下しているのを自分でも感じるのである。
これぞ精神病の一例じゃないのだろうか。
物事に対して全ての可能性への考えを持ってしまうとキリがないのである。
頭がパンクしてしまう。
色々と考えることがクセになると日常生活でも猜疑心が高まってしまう。
より精神が良くないほうへと進んでしまう。
負の連鎖である。
今回のことで分かったこととして、対極でいいのではないかということである。
思考方法としては物事を対極で考えて、その後の経過や過去の物事とすり合わせてどちら側に寄っているのかを第三者の視点を持って確認すればよいのではないかということ。
とりあえず私を苦しめていた問題からようやく解放された気分である。
大切なものは目には見えない
大切なものは目には見えない
この言葉を初めて聞いたのは、中学生のときに通っていた塾講師が生徒に贈る言葉として話したときだ。
塾講師たちが一人一人手書きボードに贈る言葉を書いていったなかで一人ボードに何も書かずにこの言葉を発したのが印象に残っている。
調べてみるとこの言葉には由来がある。小説星の王子さまのなかで名言として出てくる一節である。
物語での意味合いは大切なものは目には見えないからかけがえのないものであるというもの。
また、別の一節では、砂漠が美しいのはどこかに井戸を隠しているからだよ。という言葉がある。
私は実際の砂漠に行ったことが無いので実感はない。
私の砂漠のイメージは不毛な大地で作物などを生み出さずに昼は暑く夜は寒い危険な場所というものである。
その一方で地下深くには地下水が存在している可能性があり、砂漠のどこかしらにはオアシスが存在している。
いわゆる神秘性のはなしなのだろうかと思った。
とりあえず星の王子さまにおいては性善説的な意味合いで大切なものは目には見えないという言葉は使われている。
おそらく塾講師のかたも生きるうえでの重要な事柄として伝えたかったのだと思う。
素晴らしい意味合いを持った言葉であると思う。
ただし、私からするともう一つの意味合いとして
正常性バイアス
(人間が予期しない事態に対峙したとき、「ありえない」という先入観や偏見(バイアス)が働き、物事を正常の範囲だと自動的に認識する心の働き(メカニズム)を指す)
に近しいものを感じた。
これまでの人生において他者が忠告や嫌味や捨て台詞として解りづらく発信していたのである。
私の鈍感力と正常性バイアスがそれを察することは無かったのであったが…
会社で嫌がらせを受け始めた際にも正常性バイアスは働いていたように思う。
気が付いた時には大部手遅れであり周囲からしたらそれを露見させたに過ぎなかったわけだが…
思えは近年においては、インターネットの発達によって目まぐるしく情報が飛び交うようになった。
多くの情報の中から自分で見て選択した気になっているときがあるように思う。
明確に情報を追い求めているのであれば良いけどそうでないときもあるように感じる。
ときには目をつぶって心の眼を意識するようにしたい。
まとめ
人間忙しくなく暇ばかりを持て余しているとろくな考えをもたないものである。
確かにそうなのかもしれない。
ただ、私はその期間を経てある種の答えにたどりつけたので良かったと思う。
そうでなければ、これからもまた同じことを繰り返してしまっていたのかもしれないと思うとゾッとするのである。
知っているのか
知らないのか
人生において知らなくてもよいこともあるのかもしれない…
でも知りたいと思う気持ちは原動力となると思う。
その原動力をもって自分を変化させる努力をしていきたい。